野村克也 - jpwiki.org

野村克也



野村 克也
南海選手時代(1959年1月)
基本情報
国籍 日本
出身地 京都府竹野郡網野町(現:京丹後市
生年月日 1935年6月29日
没年月日 2020年2月11日(84歳没)
身長
体重
175 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1954年
初出場 1954年6月17日
最終出場 1980年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1989年
選出方法 競技者表彰

野村 克也(のむら かつや、1935年昭和10年〉6月29日2020年令和2年〉2月11日[1][2])は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身[3]プロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家

愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。

選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位(捕手としては最多)、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持つ[4]

また、監督としても「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持する。監督として1563敗は歴代1位[5]プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。

目次

概要


野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球シダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督[6][7]。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家を務めた。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。

通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打本塁打打点塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。

愛称の「ムース」とはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。また「和製のベーブ」と呼ばれることがあった。

生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村ケニー野村がいる。

生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3,017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3,204試合と3,000試合の大台に乗せている。また、通算打席数(11,970打席)と通算打数(10,472打数)も歴代1位記録である。

経歴


プロ入り前

京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)に野村要市・ふみ夫妻の次男として生まれる。実家の家業は食料品店。3歳のときに日中戦争に出征した父・要市が満州にて戦死。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度も癌を患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄・嘉明と共に新聞配達[8][9]やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。

貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたが[9]、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手(後に読売ジャイアンツ等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになるが、貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。野村は兄の通う京都府立峰山高等学校の工業化学科に合格したものの、母からは学業優秀な兄を大学へやるから中学卒業後は働くようにと言われたが、兄が大学進学を断念したうえで野村が奨学金をもらえるように同校の野球部長をしていた教員の清水義一に頼み込んだこともあり、野村は高校に進学することができた[10]

峰山高校の体育教師(糸井嘉男の祖父[11])は高校時代の野村を「あんな運動神経の発達した生徒はちょっとありません。排球をやらせたって、他の生徒とは群を抜いていますよ。あれなら水泳だって、柔道だってこなすでしょうし、角力取りにでもなれるかも知れません」と評している[12]。しかし、野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村の在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高と、甲子園など夢のまた夢の無名校でプロ野球のスカウトが訪れるような環境ではなかったため、清水は野村のために各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送った。その中で南海ホークスの鶴岡一人(当時は山本姓)監督だけが返事をくれ、1953年7月24日に西京極球場で行われた府予選(対花園高校)で、約束通り観戦に来た鶴岡の見守る中、野村はランニングホームランを放った。試合後に鶴岡は、秋に入団テストを実施するのでその時に彼を寄越して下さいと清水に伝えた[13]

そうした折、野村は巨人のテスト生を募集する新聞広告を見つける。野村は巨人の入団テストを受けるつもりでいたが、清水から監督さんが約束通り見に来て下さった南海の入団テストを受けるようにと言われ、9月に一次テスト、11月に二次テストを受け、合格が決定した[14][注 1]。ところが既に就職活動鐘紡国鉄福知山鉄道管理局)から内定を得ていたこともあり、母と兄はプロ入りに反対した[16]。特に兄は筒井敬三松井淳の両ベテランに加え、小辻英雄ら有望な若手もいて捕手の層が厚い南海では厳しいのではないかと心配したが[17]、野村の決意は固く、清水もダメだったら私が責任を持って就職口を用意しますと取りなしたので、最終的には母も兄もプロ入りに同意した。

現役時代

レギュラー獲得まで

1954年、南海にテスト生として入団。背番号は60。同期入団には皆川睦雄宅和本司がいる。

当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局、一年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが、秋季キャンプ中に正捕手の松井淳が交通事故、2番手捕手の筒井敬三高橋ユニオンズトレード、3番手捕手の蓜島久美が頭部に死球を受けてケガをしたことで捕手不足となり残留した。

しかし肩が弱かったため、秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は1軍出場や日本シリーズの出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し[18]、シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。この時代、まっすぐ投げることができていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。こういう経験から[要出典]、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。

3年目の1956年には背番号が19に変わる。ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『私の履歴書』では若干異なる趣旨のことを書いている[19]

戦後初の三冠王

4年目の1957年には山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王タイトルを獲得。杉浦忠広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1960年中原宏の紹介で西宮で鉄工所を営む家の娘と見合いをし結婚。翌年には長男が誕生する[20]。夫人は野村の体調管理に気を遣い、特に食事面に関しては年間を通じて献立を計画して夏場に胃腸の調子を崩さないように配慮した[21]。野村も1965年の『週刊ベースボール』の取材に対して「(夫人の)料理は天下一品やもんね。スタミナつけてバリバリ打つように操縦されてるようなもんや」と語り[21]、同年12月に刊行された初の自著の中でも「僕が安心してプレーできるというのも、家庭というバックボーンのお蔭である」と述べている[22]。また、捕手兼四番打者としての重責に思い悩む野村に自家と付き合いのある天台宗の高僧・葉上照澄に相談することを勧めた。これにより野村は精神的なスランプの打開に成功し、葉上は野村の後援者となった[23]

こうして私生活の安定を得た野村は、迎えた1961年シーズンに中田昌宏(阪急)と並ぶ29本塁打を放って4年ぶりに本塁打王を獲得。この年から8年連続本塁打王を獲得するなど、以降は打撃タイトルの常連になっていった。1962年別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。この年からは打点王も6年連続で獲得し、6年連続二冠王となる。1963年には小鶴誠松竹ロビンス)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した[注 2]。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた[24]

1965年には戦後初の三冠王に輝く。捕手としての三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている[25]。ところが、11月17日にこの年限りで退団する鶴岡に代わる新監督に就任したばかりの蔭山和夫が急死してしまう(南海蔭山新監督急死騒動)。野村は事態を収拾するため、直ちに杉山光平と共に鶴岡のもとを訪れて南海への復帰を懇願し[26]、蔭山の死で気落ちした鶴岡を説得して監督復帰を受諾させた。後日催された球団による追悼式典の場で、野村は「蔭山さん、親分も帰ってきて下さいました。蔭山さんの遺志を僕たちは立派に継いでいきます。どうか安心してお眠り下さい」と弔辞を述べた[27]

1968年からはコーチ兼任となる[28]。この年はジョージ・アルトマン(東京)と僅か1打点差で打点王を逃し、連続打点王と二冠王が途切れる。同年オフに母親が逝去。また鶴岡がこの年限りで監督を退任した。1969年、野村は試合中に二度も重傷を負い、しばしば欠場に追い込まれたうえに怪我の後遺症に苦しめられ、22本塁打、52打点と例年の半分程度の数字しか残せなかった。そのため連続本塁打王も途切れ、さらにはレギュラー獲得以来13年連続で守り続けてきたベストナインの座も岡村浩二(阪急)に明け渡した。チームの大黒柱である野村の故障が主因となって、南海は戦後初の最下位に終わり、飯田徳治監督は責任を取って一年限りで辞任した。

当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった[注 3]。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった[29]

打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率(首位打者)と最低打率の両方を経験した初めての打者となった[注 4]

通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。中学生までは足が速かったと語るが、誰も信用してくれないという[30]。1972年には、二度ホームスチールを試み、二度とも成功させている(因みに、福本豊は七度挑戦して成功は一度)。「盗塁は足でするものではなく、頭でするもの」が持論であった[31]。ただし、ホームスチールに関しては21回試みていたことから、14回も失敗しているワースト記録もある[32]

データ野球・駆け引き

打者としての読み

上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。

投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。当初はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。

捕手としての駆け引き

野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫や尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。

捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして(著書「野村克也 野球論集成」では日比野、「野村の遺言」には、阪急の山下健と書いている)始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、今度は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更した。東京都であれば銀座、大阪府であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという[33]

このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。白仁天はささやきによる集中力低下を避けるために耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。

ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と意に介さずに会話を続けたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じなかった。さらに動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ、1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。そしてホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の榎本喜八に対しては、榎本独特のオーラに呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという[34]

オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。また、稲尾はマスコミや周囲に「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で、本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村だけだった[35]

プレイング・マネージャー時代

飯田徳治監督の後任には西沢道夫青田昇が候補にあがっていたが、川勝傳オーナーから「南海再建を託せるのは君しかいない」と熱心に口説かれ、1969年11月1日、34歳の若さで選手兼任監督に就任した。[36]この時に野村が挙げた条件がドン・ブレイザーをヘッドコーチにすることであり[36]、野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている[37]。捕手というポジションで野球を突き詰めて考えていた野村は、以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと思っていた[36]。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。野村の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)[注 5]。投手コーチに日通名古屋の監督であった古谷法夫、打撃コーチには日刊スポーツ記者の傍らTBS解説者として人気を博していた沼澤康一郎を招聘。

監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。1972年には打点王を獲得した[注 6]。この頃には、後の妻、野村沙知代との愛人関係が始まっている[注 7]

監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となったが[36]、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる[36]。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした[36]。トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一松原明夫を獲得した。弱体化していたチームを立て直し、1973年にリーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった[注 8][38]。監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。

阪急の1番打者として活躍していた福本豊盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法の重要性自体は三原脩が既に提唱していたが[39]、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。

監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、実は選手を借金地獄から救うためや、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。西岡三四郎は投手コーチと衝突したためトレードに出して欲しいと直訴してきた。野村は「自分が球を受けているから、主力でいられるんや」と慰留したが、本人の意思が堅かったために止むなく放出する。西岡はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ。[要出典]逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや」と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。一方で放出した選手の一部には恨まれることもあった。

1972年、チームでは、一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た(最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久のいる太平洋クラブに引き取られた)。

1975年オフ、長嶋茂雄が監督に就任した巨人はこのシーズン最下位に沈むと、コーチ陣のテコ入れのため、極秘で野村に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋が同意しなかったため、“巨人・野村克也”は幻に終わった[40][41]

1976年に江本らとのトレードで野村自らが説得し阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は1977年6月からリリーフに転向[42]。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。

1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で[43]、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った[注 9]。野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執が原因の一つと考えられる[43]。広瀬叔功は著書の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った[44]」、「当時を思い起こせば監督夫人が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう[45]」と記している。江本は著書の中で沙知代が大阪球場に電話をかけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」、「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったと言う[注 10][46]。「えらいこと言うオバハンやな」、「公私混同でひっかきまわないでくれや」と選手もウンザリしていたという[46]。1975年オフに選手会が緊急会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判し「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話をして野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本ら安心して引きあげたが江本[46]、西岡は同年オフトレードで移籍している。なお、後任の監督に広瀬が決定するまでの残り2試合は、当時二軍監督だった穴吹義雄が指揮を執った。1978年(昭和53年)、前妻との離婚が成立した野村は沙知代と再婚した。

この時のことについて野村は著書やテレビで後援会長の葉上照澄と会った時に、「野球を取るのか女を取るのか」と聞かれ、「女を取ります」と答えたと言っている[要出典]

監督解任時の会見でも沙知代の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」を否定。「コーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていません」と発言している。

解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。また、ホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。

ロッテ・西武時代

南海退団直後の1977年11月17日、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。 金田は野村を戦力としては期待しておらず、野村の豊富な知識と経験、長年にわたって蓄積したデータを丸ごと手に入れることが獲得の目的だったと言われる[47]。また金田は同時に江夏の獲得を臨み、実際に野村を介して江夏にロッテ移籍を打診するも、江夏が金田の下でプレーすることを拒み、破談。野村は代替案として柏原獲得を進言するも、金田が拒否し、結局野村単独での移籍となった経緯がある[48](但し前述の通り、高畠は打撃コーチとして野村と共にロッテへ移籍)。 当時ロッテの投手だった村田兆治は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている[49]。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという[50]。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われた[50]。同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から「監督をやってくれませんか」、「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが[50]、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に山内一弘の監督就任を発表している[50]

1978年12月1日、根本陸夫監督率いる西武へ移籍[注 11]。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明[51]、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。

引退

野村が引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦(ダブルヘッダー)だという。この日、野村は捕手として第1試合にスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、1死満塁で迎えた野村の打席で、根本監督はここまで3打数ノーヒットだった野村に実働26年の選手生活で唯一となる代打(鈴木葉留彦)を送った。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後代打策の失敗を祈っていた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れた。野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。なおこの日は、途中出場した第2試合を含めて12盗塁を許していた[52]

11月15日、記者会見を行い現役引退を正式に表明した。翌16日の引退セレモニーでは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。南海の高卒新人捕手香川伸行から花束贈呈された。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学1年生の息子・克則が乗っていた。

なお、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで、塗装を塗り替えながら使用し続けた。そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、5年後に清原和博に引き継がれる。入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合ったことにより、引退まで使い続けた。

解説者時代

1981年からTBSテレビ・TBSラジオの野球解説者(1982年まで)[注 12]およびサンケイスポーツの野球評論家を務める。1983年からはテレビ朝日の解説者を務め、プロ野球中継では「ノムさんのクール解説」と呼ばれた。また、1981年から6年余り、週刊朝日で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、ストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる[54][55](「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。後年も解説者として出演する際には登場することがある)。これは野球中継では初の試みであった。またこの時期は講演や、沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督就任など公私にわたって活動した。

1989年1月、野球殿堂入りする。

専任監督時代

ヤクルト監督

就任時の状況

1989年10月、野村はヤクルト本社社長の桑原潤の熱烈な要請を受けて、セ・リーグヤクルトスワローズの監督に就任し、12年ぶりに現場に復帰した。

沙知代の長男であるダンは、1978年から1981年までヤクルトに選手として在籍し、引退後にはマイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズのオーナーを務めていて、1989年シーズンには3人の選手(忰田幸也鈴木康博幸田正広)がヤクルトからサリナスへ野球留学で派遣されており[56]、ヤクルト球団と野村家の間には太いパイプがあった。7月に財界筋から桑原へ「野村氏がヤクルトなら、監督を引き受けるかもしれない」との情報がもたらされると、桑原は直ちに球団社長兼オーナー代行の相馬和夫に野村との接触を命じた[57]。同年には他にダイエー、ロッテ、大洋の3球団からも野村へ監督就任の要請があったが、ダイエー、ロッテはセ・リーグの監督を希望する野村の意に合わず、大洋は戦力再建に時間がかかる状態であったために拒否した。これに対して、若く素質のある選手が揃っており資金力も豊富で、講演・評論で2億5千万円ほどの年収があるといわれる野村に相応の年俸を用意できるヤクルトへは、ダンを通じて就任に前向きな態度を示した[57]

本社社長の桑原が野村の招聘活動を進める一方で、球団社長の相馬は8月からこの年限りでの現役引退を表明していた若松勉を監督に就任させる準備を始めており、9月の時点では若松が次期監督就任濃厚と目されていたが[57]、桑原は相馬の動きを押し止めるため、相馬のオーナー代行職を解き自らがオーナー代行に就任して球団経営への直接参加に乗り出し、10月初旬には野村と会食して、契約金7千万円、年俸8千万円(いずれも推定)という条件を提示して全面支援を約束し監督就任を正式に要請。野村もこの要請を受諾した[57]

就任会見で桑原は「野村監督は、私が中心となって決めました。私がオーナー代行も兼ね、全社をあげてバックアップします[57]」と宣言し、野村も「桑原社長には高く評価してもらったのだと思う[58]」と語った。しかしヤクルト退団後には、桑原との関係が悪化していたこともあり(1995年の開幕直前に、桑原が「おそらく野村監督も今季が最後だろうと思いますので」と発言)、野村は一転して、桑原ではなく相馬に自分の野球理論を高く評価されたと主張するようになり[59]、さらに桑原と相馬が死去した後には、全く縁もゆかりも無いヤクルトの監督をやるつもりはなく、当初は断ったが「あなたに受けてもらわない困る」と桑原ではなく相馬から頼み込まれたので渋々同意した。と主張するようになった[60]

コーチ陣は、打撃コーチ(ヘッド格)に南海時代からの参謀である高畠康真が就任した以外は、球団側の用意したヤクルトOBで固められた[61]。また就任直後に、高血圧性心疾患の疑いで慶應病院に入院したために、西都での秋季キャンプに参加することができず[62]、こうした健康面での不安から、一部では早くも「野村の次の監督」を推測する報道がなされた。

ID野球

1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語[63])を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山隆寛広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し(1993年)、池山もその90年にキャリアハイの打率.303、97打点(本塁打は31)を記録した。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司を外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は大里晴信の疑惑の判定もあり、2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。9月8日の試合では巨人の優勝が決まり、目の前で胴上げを見ることになった。野村の要請でヘッド兼打撃コーチに就任した高畠は一年で辞任、「野村さんはすっかり変わってしまった。いろいろな事に疑心暗鬼になる人に変わってしまった。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず夫人の介入もありました」と述べている[64]

1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、潮崎哲也のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。

ID野球に倣い、IDバレー(眞鍋政義監督)やIDサッカー(野村雅之監督)など、他のスポーツでも「ID」を冠したキャッチコピーが使われるようになった。

セ・リーグ連覇と日本一

1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン伊東昭光だった。この年は前述の選手に加え、投手では西村龍次岡林洋一内藤尚行高野光、野手では荒井幸雄橋上秀樹笘篠賢治ジャック・ハウエルらが活躍。ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した荒木大輔の起用もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫角盈男金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享八重樫幸雄は代打として働いた。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。

1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、レックス・ハドラー、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、新人の伊藤智仁が前半戦で大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年にカムバック賞を受賞した川崎憲次郎、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。この年の12月31日に行われた第43回NHK紅白歌合戦では審査員として出演した。

1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。

リーグ優勝・日本一

1995年は、投手の石井一久山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、新人の稲葉篤紀、新外国人テリー・ブロス、さらに阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー、前ロッテのヘンスリー・ミューレン[65]、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した吉井理人など移籍してきた選手が活躍。前年オフに主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが揃って巨人に移籍したことによる穴をこれらの選手が十分に埋め、安定した戦いぶりにより[注 13]、最終的には全カード勝ち越しでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した日本シリーズイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、4勝1敗で日本一になった[注 14]。1996年は4強の一角に食い込むも投手陣の総崩れから早々に脱落、終盤にはイニング連続無得点のリーグ記録も更新して4位に終わる。

1997年の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。1997年5月16日の阪神戦の勝利で監督として三原修藤本定義水原茂、別当薫に次いで史上5人目の両リーグ500勝監督になった[66]。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑一也(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也真中満、稲葉、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑と共にダイエーから移籍した佐藤真一青柳進、同じく1996年に西武を戦力外になり移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史中日からテスト入団した野中徹博らがいる。

1998年は4位に終わり、同年9月21日に退団した。

最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532[67]。 ヤクルトの前身、国鉄・サンケイ時代を含め、野村の勝利数、勝率はいずれもトップである[67]

ID野球のミーティング

現役晩年を野村指揮下で過ごした渡辺久信はヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。

その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。

トーマス・オマリーは「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている[68]

阪神監督

1998年10月25日に三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。久万俊二郎から野村に対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」と熱く語ったという[69]。当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である[70]。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである[70]。1985年の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見では球団側から「野村監督様」と紹介されるなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。

前任の吉田義男が「今のメンバーで核になるような選手はいまへんわ。脇役ばっかりで戦っているようなもんですわ。」と言い残した戦力をそのまま引き継いだ[71]

「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は落語家月亭八方。総売上げ数は27個)。

オールスター戦を挟んで9連敗[72]、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった[72]

また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。

1999年のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。

ダレル・メイが「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言[72]。文書で野村批判のビラを自ら配る[72]。メイはシーズン終了を待たずに解雇された[72]

なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一・二塁で、阪神・湯舟敏郎が送りバント。一塁塁審の小林毅二は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・馬場敏史の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し[73]、野村の野球人生で初めての退場処分となった[74][75]

2000年は、1軍守備走塁総合コーチに西武時代の同僚でもあった伊原春樹を招き、伊原が西武コーチ時代担当していた守備、走塁の作戦面を任せた[76]。4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗[77]。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった[77]。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も川尻哲郎が復調の気配を見せたぐらいだった[77]。伊原はジェイソン・ハートキーの盗塁失敗を巡り野村と対立し、1年で退団[76]。2001年は、4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。野村が招聘した松井、八木沢、柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)[78]

2001年10月19日に野村の2002年シーズンの監督留任が発表され、ヘッドコーチに木戸克彦、投手コーチに佐藤義則、打撃コーチに和田豊を据える、翌シーズンの首脳陣も公表されていた[79]。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された12月5日に辞任を発表した[80]。なお著書「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったという。

結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。

F1セブン

F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地の甲子園球場が広いことや、新庄のメジャー移籍等で長距離打者が皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。

なお、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。なお、『野村ノート』(小学館)では「高波、藤本、沖原、秀太ら足の速い選手を7人集めて【F1セブン】といって売り出した。まぁ、沖原などは決して速いほうではなかったのだが、セブンの語呂がよかった」と説明している。

F1セブンと平成の新少年隊
阪神監督としての評価

メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、野村はそのチームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村が監督をしていた当時の阪神は、本塁打を20本程度打てるものの三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と桧山進次郎がクリーンナップとして出場するなど、過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった。

投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた福原忍や若手で野村監督就任時2年目だった井川慶に大きな期待をかけていた。特に井川については野村が監督をつとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原や井川が活躍してセ・リーグ制覇を勝ち取った2003年シーズンおよび2005年シーズンのチーム防御率はそれぞれ3.53と3.24だった。

野村と共にヤクルトから移籍した、ヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた[81]

一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と度々酷評していた今岡誠大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率かつ三振が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としての地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。

ヤクルト時代の教え子で、巨人退団後野村が獲得した広澤克実は「2000年の阪神はヤクルトが最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン、外国人、若手がみんなバラバラ。不協和音が流れ、選手が育たない独特の雰囲気だった。私は右肩の脱臼骨折が完治しておらず、ボールが投げられない状態だったが、よく4番一塁で使ってもらった。一塁手の大豊泰昭が野村監督と揉めていたからだ。」と述べている[82]

野村の阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井さん(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている[83]

グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる[84]。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。エースと4番打者は育てられないと主張する野村に対し[85]、久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。

また、当時阪神が短期間で監督を代えていたこと、編成部の有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてもチームは強くならない。戦力補強と編成部の強化を行うべき」とも進言した。これらの意見に対し、久万は会談中激昂する場面もあったものの、会談後、野村の意見を取り入れたと見られる施策を打っている(片岡篤史ジョージ・アリアスの補強、鳥谷敬の獲得等)。

当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。

また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。後任の星野も久万に直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。 その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。

シダックス監督

2002年11月6日社会人野球チームのシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。就任当時のシダックスは低迷していたが、野村は持ち前の理論を元にチームを再建。またオレステス・キンデランアントニオ・パチェコの元キューバ代表選手を獲得、2003年の第74回都市対抗野球大会では準優勝を果たした。この年のオフにはサンケイスポーツなど一部スポーツ紙から中日ドラゴンズの次期監督候補として名前が挙がった[86] が、結局は落合博満が就任した。

2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は同年の社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。

のちにキューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものもあった。

楽天監督

2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航した。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に受諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目[注 15]

監督就任に際し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。「三木谷浩史が清原のファンみたいだね。オレは知らないけど、三木谷が獲りにいくでしょう。ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」と改めて難色を示し、コーチ人事は伊勢孝夫、八重樫幸雄、川崎憲次郎の名前が候補に挙がっていたが[87]、川崎に投手コーチの要請をしたが断られ[88]、自身の人脈で連れて行ったのは池山隆寛だけだった[89]

2006年5月11日、セ・パ交流戦の対横浜戦において、8回裏に谷中真二が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに激昂し、木内九二生球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや野村も退場処分になるところだった。5月16日、フルスタ宮城で行われたヤクルト戦では、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトが勝っていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。

かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方、記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。ホームゲームでは毎試合、終了後に記者の囲み取材に応じており、テレビのスポーツニュースでは野村の試合後のコメントが伝えられた。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして、「野村語録」が常設されるようになった。

育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、楽天時代には活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈るなど、以前とは違った面を見せ始めた。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、コーチに転身した。

2006年は昨年続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ苦戦、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録となった。

2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村は就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年かけてチームを作る方針を語ってきたが、2007年は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱する計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うというリップサービスであったのかは定かでない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調したため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。

2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘岩隈久志らがシーズン序盤で離脱した影響もあり、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場と岩隈が一軍に復帰したこともあり先発ローテーションを再編、それまで主に先発だった山村宏樹有銘兼久、永井らをリリーフに転向させた。さらに4番を張る山崎武司が38歳での本塁打王・打点王の二冠に輝く大活躍もあり、シーズンの最終成績は4位で創設3年目で初めて最下位を脱出した。2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。

2008年6月29日のソフトバンク戦で球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」企画の一環として、当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現するイベントが行われた(この試合では豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。

同年7月15日、日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、ドミンゴ・グスマンホセ・フェルナンデス(中村紀洋をFAで獲得)が退団。

2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、片山博視青山浩二といった期待の若手もキャンプで出遅れた上、前年活躍した新守護神川岸強も開幕後すぐに体を傷めるなど、投手に関しては就任以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介リック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。

レギュラーシーズンが開幕するとチーム初の開幕4連勝で好スタートを見せ4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出が決まった。9日のオリックス戦で2位が確定しCS第1ステージの地元開催権を獲得する。楽天球団として創設後初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。

翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(ソフトバンク戦)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。日本ハムに敗れた10月24日が野村にとって現役、監督通じてユニフォームを着てグラウンドに姿を見せた最後の日となった。11月2日、楽天の新監督に広島の前監督マーティ・ブラウンの就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾した。この年をもって現場からも完全に引退することとなった。

退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。2009年が、ユニフォームを着た指揮官として最後の年となった。

監督退任後

2010年からはサンケイスポーツの野球評論家に復帰、テレビ・ラジオではフリーの野球解説者として出演した。

2010年1月24日には、故郷網野や母校が在る峰山町平成の大合併で両自治体合併し京丹後市)を含んでいた京都5区選出代議士谷垣禎一総裁就任直後の政権奪還を目指す野党第一党自由民主党の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と自民党の政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と第45回衆議院議員総選挙敗北の要因を野村なりに分析し語った。また、自民党をかつて「球界の盟主」と言われた読売ジャイアンツに例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土重来、頑張ってください」と応援の言葉を述べた[90][91][92][93][94][95]。また、小泉進次郎衆議院議員初当選から半年足らず)については「実にしっかりしている」と述べ、その上で「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」と述べた[96]

S☆1で共演していた枡田絵理奈は「野村さんの解説は本当にわかりやすく、ひとつひとつのプレイをとてもていねいに教えてくれます。監督は、野球をあまりよく知らない私に、野球の〝楽しさ〟や〝奥深さ〟を教えてくれる先生でもありました」と言っていた[97]2011年の日本シリーズでは第2戦、第5戦をテレビ東京系列で、第7戦をTBS系列でゲスト解説を担当した。中継放送終了後のS☆1も生出演した。

2012年12月29日、契約満了により楽天名誉監督を退任[98]。2020年現在までに、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは、野村と長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)のみである。

2013年4月、日本体育大学児童スポーツ教育学部客員教授に就任[99][100]。大学で講演など実施。 2013年12月16日に有馬記念レセプションパーティーにスペシャルトークショーのゲストで出演し司会の徳光和夫に対して監督時代から鬱積した不満をぶちまけるようにストレートな毒舌を浴びせたこともある[101]

また、野村は監督在任中の1990年から、地元の旧京都府網野町(現・京丹後市)に、三冠王達成時のペナントや、MVPのトロフィーなど約80点の記念品を寄贈してきた。網野町では記念館の建設を計画したもの頓挫し、その後、これらの記念品は京丹後市内で塩漬け状態となっているという。地元住民や有識者からは記念館建設を望む声が強いものの、京丹後市は予算不足を理由に及び腰とされている。野村は「自分の記念品を邪魔物扱いしているのか」とぼやいているという[102]。2018年3月に丹後地域地場産業振興センター(アミティ丹後)に「野村克也ベースボールギャラリー」が開設され、後年のヤクルト監督時代なども含めた野村からの寄贈品を中心に展示している。

2017年12月8日、妻の沙知代が急死。当日の自宅前での会見では「突然のことでびっくりしています」と憔悴した表情で述べた[103]

2020年になってからもヤクルトやシダックス野球部のOB会に出席。かつて指導したヤクルト新監督の高津臣吾や日本ハム新任コーチの武田勝にエールを送っており、特にヤクルトに対しては「ヘッドコーチ? 喜んでやりたいと思います」と冗談めかしながらサポートにも意欲を見せていた[104]。1月21日には前年10月に死去した金田正一のお別れの会に参列し、献花した[105]。さらにその後、1月25日に催されたシダックス野球部OB会に出席して「愛がなければ人は育たない」とスピーチしたのが公の場に於ける野村の最後の姿となった[106]

死去

2020年2月11日未明、東京都世田谷区の自宅の浴槽でぐったりしているところを家政婦が発見し、病院に搬送されたが死亡が確認された[107][108]。84歳没。

死因は虚血性心不全[109]ニューヨーク・タイムズ誌も訃報を報じ、追悼記事を掲載、功績を紹介した[109]

記録面でのトピック


野村の残した3,017試合出場は日本プロ野球2位(パリーグ1位)[110]の記録であるが、2015年7月28日に中日ドラゴンズの谷繁元信が記録を更新するまで、日本プロ野球1位の記録であった。これについて宇佐美徹也は「野村が本塁打記録よりも何よりも最も誇りに思っている記録なのだ。(中略)この出場記録の話になると目の輝きが違ってくる」と記している[111]。この3,017試合中、捕手として出場した試合が2,921試合ある。宇佐美の著書の当時はMLBの捕手出場最多記録はアル・ロペスの1,918試合でこれを1,000試合以上上回っており、宇佐美は捕手の負担の重さも踏まえて「(このことを知ったら)米大リーグ関係者はびっくり仰天するに違いない」と記している[111]。なお、MLBの記録は後に更新されており、2015年4月時点での記録はイバン・ロドリゲスの2,428試合となっている[112]。宇佐美が野村に「もっと楽なポジションだったら?」と尋ねると、野村は「捕手の目を通して得たものは限りなく大きい。捕手だからできたのさ」と答えたという[111]

パンチョ伊東は、野村が1963年に150試合全部それもフルイニング出場した事をアメリカ人記者に話したところ、正に信じられないといった顔付きで「全く信じられない。捕手で全試合、全イニングなんて彼は一体その選手はどんな物凄い体をしてるんだ」と驚いたという。MLBではダブルヘッダーでは捕手を併用する事が多く、全イニングどころか全試合も不可能に近いとされている[113]。「捕手は投手を除く他の守備位置とは疲労度が違う。ほとんど投手と同じくらいと言っていいぐらいだ」とMLB各監督は共通して語っているほどで、ダブルヘッダーでは続けて被らせないようにしている。伊東は「ひょっとして世界最強チームを選ぶ際、野村の名が挙がる事もあるんじゃないか」と思えるほど値打ちがあると述べている[114]

ただし、その出場試合数の多さがネックとなることもあり、通算併殺打の378回、シーズン最多併殺打8回という負のイメージのある日本記録ホルダーでもある。通算併殺打は2019年5月4日にMLBアルバート・プホルスに並ばれるまで、メジャーリーグにも記録した選手はいなかった。

野村は1956年から1977年まで22年間の長期にわたって南海の正捕手の座を死守した。この期間に38人の選手が捕手として南海に入団したが、そのうち22人が一度も一軍の試合でマスクを被る事が出来なかった。100試合以上を捕手として出場出来たのは柴田猛(165試合)と松井淳(101試合)の2人のみである[115]。2014年8月27日、中日ドラゴンズの谷繁元信が捕手として2,922試合目の公式戦出場を達成し、野村の引退から34年にして記録を更新した[116]

2リーグ制となった1950年以降、日本プロ野球において捕手が打撃三部門(打率、本塁打、打点)のタイトルを獲得した例は22回あるが、そのうち17回は野村によるものである(ほかに田淵幸一、古田敦也、阿部慎之助森友哉がタイトルを獲得している)。このうち、2019年終了時点で三冠王獲得と年間50本塁打以上達成をしたのは野村だけである。

2019年終了時点で通算本塁打数は657本で歴代2位だが、捕手登録選手では歴代1位、そして500本塁打以上を達成しているのは野村だけである。

選手としてオールスターゲーム通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手(1980年、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年のオールスターゲーム 第1戦では、谷村智博から本塁打を放つなど2安打3打点と活躍、初のMVPを獲得した。1977年のオールスターゲーム 第2戦でも先制打を放ち、42歳にして2度目のMVPを手にしている。

江夏豊のオールスターゲームの連続奪三振記録を止めたのは野村である。オールスター9連続奪三振を達成した前年の1970年、江夏はオールスターゲームを5連続奪三振で終えていたため、2年越しの14連続奪三振を達成したことになる。その後、第3戦(1971年7月20日、後楽園)の6回に登板した江夏は、代打江藤慎一で15連続奪三振を達成。次の打者となった野村は、ボールに当てることを優先し、セカンドゴロで連続奪三振を止めた。野村は、「パリーグで育った者として、連続だけはなんとしても止めたかった」とコメントしている[117]

病歴・入院歴


2010年5月10日、解離性大動脈瘤のため東京都内の病院に緊急入院。10日間ほどで退院する。

2014年10月16日、解離性大動脈瘤で1ヶ月入院したことを明かした。

晩年はかなり足腰が弱っており、イベント時には車いすなどで登場することも少なくなかった[118]

人物


自分から野球をとってしまったら何も残らないという意味で、自ら「野村克也-野球=ゼロ」と語っている。

母子家庭に育ったこともあり身内への情が深く、南海兼任監督時代には選手や裏方のことを常に気にかけていた[119]。猛打賞等でもらったアンダーシャツ、ソックスをダンボールに山ほど積んで選手や打撃投手・ブルペン捕手によく配り、スーツもよく裏方スタッフに譲っていた。

生来の性格はとび抜けた「負けず嫌い」である。古田敦也は「理論派と言われるが実際には感情的で、ベースは負けず嫌いのかたまりのような方。その上での理論だった」と述べている[120]

日本でも代表的な恐妻家と思われていた。野村の語録に「オレも支配下選手だからな」という台詞がある。

幼少時代からの極貧生活の反動で、一流選手になってからは金遣いが非常に荒かった。超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍をいっていたという。沙知代夫人と初めて出会ったときもジバンシーのシャツだった。前妻のもとを離れ、沙知代夫人と同居する時も、トラックに衣服を詰め込んでやってきたという。車は決まって外国車(現役時代はリンカーン・コンチネンタル。野村は運転しないので、夫人が運転手を務めた)[121]。「贅沢だと思われるけど、下取りを考えても国産と比べても、大差ない」というのが持論だった。現在は、ヴェルサーチのネクタイと時計の収集が趣味で、ネクタイはヴェルサーチだけで合計411本、時計は1996年に現役時代から収集してきたものを泥棒に全て盗まれてしまったが、その後数千万円の時計がおおよそ15本ある[122]

沙知代夫人と再婚してからは、夫人が一切現預金を管理しているため、現金を持たせてもらえず、クレジットカードだけ持たされていた。ある日、一流ブランド店に行った時、服や宝飾品、時計を眺めていると、店員に言葉巧みに買わされてしまった。そこで、「監督、(クレジットの明細書に)サインして」と言われ、かつクレジットカードの仕組みが分からず、「カードを見せてサインしただけで、なんで商品をくれるんだろう」と思っていたという。おまけに、クレジット明細が沙知代夫人の元に届くことを知らず、いつ、どこで、何を、いくら買ったかが全てバレてしまい、夫人から追及され、「オレの後をつけて来てるやろ、嫌らしい女やな」と言ったという。キャッシュカードで現金を引き出す際に暗証番号が必要であることも知らず、「選手がやるとお金がジャージャー出てくるのに、自分がやるとなぜ出来ないのが不思議だった』という。

野崎勝義は野村について、「話し好きで、話題が多岐にわたり、実に楽しい人物である。ただ、本人によると、いや、よらずとも確かに初対面の方には人見知りをされる。言い換えればシャイなのである。それはわずか3年のお付き合いだったが、よくわかった。」と著書に記している[70]

よく縁起を担いでおり、勝ち続けた日は下着を変えない、負けた日は行きと同じ道を通らない、など徹底していた。遠征先でもバスやタクシーの運転士に命じてまで実行するという。血液型による性格付けを信じているとされる。

現役時代から、付き合い程度でしかゴルフをやらず、ゴルフ場にもほとんど顔を出さなかった。1975年オフの球団納会ゴルフにいて、江本が「なぜ監督がいるのか?」と驚いていたが、江本への阪神へのトレードを通告するためだけに来ていた。この時に発した言葉は「お前、旅に出てこいや」だった。現役を引退してからは、金輪際体を酷使することはしないことを誓ったため、一切運動はしていない。カメやワニが長生きするのは動かないからということを真似たことだと語っている。故に70歳を過ぎても健康且つ長生きする秘訣と語っている。

若い頃は酒をどんなに飲んでも翌日に酒が残ることはなかったが、1973年の南海選手兼任監督時代、飲んだ翌日、二日酔いが抜けなかったことをきっかけに、以後たまにワインを口にする程度で、ビールかけ以外では一切酒を口にしなくなった。また「ケント」という銘柄のタバコを1日に40〜50本吸うほどのヘビースモーカーで、南海時代に一時期禁煙していたが、体重が90kgを超えたため、再び喫煙するようになった。しかし、1989年のヤクルト監督就任後の秋季キャンプ時に体調を崩し入院してからは一切吸わなくなった。

母校である峰山高校が1999年の春の甲子園に出場した際に500万円の寄付を行い、京都府より推薦され紺綬褒章を授与された。

阪神監督就任時から松村邦洋に物真似され、「掛布雅之と川藤幸三と野村は完璧。でももう古いから、これからは新庄やれ」と言っていた。阪神の選手の結婚式の時、松村も招待されており、ここでも物真似を披露し、「松村…うまくなったね…」と野村は評した。ネタは「野村克也、逆から読むと、やつからむの」だった。

頭の大きさが他の日本人選手と比較して大きい。選手時代は日本製で頭に合うヘルメットが無かったほどである。このため野村は1970年3月の日米野球でサンフランシスコ・ジャイアンツが来日した際にちょうど良いサイズのアメリカ製ヘルメットを見つけ、用具係に頼んで入手した経緯が有り、このヘルメットを1980年に西武で現役引退するまで使用していた。このヘルメットは野村が引退した後に西武球団の倉庫にひっそり保管されたままだったが、1986年に清原和博が西武に入団した際、彼も入団時に合うものが無く、野村のヘルメットが彼の頭に合うことで以後、2008年の現役引退まで使用されることとなった。清原は現役時代、3つの球団を渡り歩くこととなるが、移籍する度にヘルメットを球団のデザインに塗り替えていた[123]

野球

打撃はもちろん、捕手としても優れていたが、野村自身は松井淳を優れた捕手として認めており「強打者として買われていたから松井さんからレギュラーを奪えたが、自分が打撃に悪影響のある怪我をすれば、すぐに松井さんに代わってしまう」と高く評価していた[124]。野村が今まで見た投手の中で、最も球が速かったのは江夏豊だという[125]。また、現役時代に対戦した打者の中で1番恐ろしかったのは榎本喜八であると語っており[126]、長い監督経験でNO.1の投手は伊藤智仁であると述べている[127]。現役時代はバッテリーを組んだ投手はいい投手に恵まれなかったと語るが、その中でも杉浦忠だけは凄かったと褒めており、「1年に38勝もするピッチャーだから、彼のときはボールを受けていても、ひとつも面白くなかったね」と語っている[30]

現役時代、広島から南海に移籍してきた古葉竹識は野村のリードを見て、「上手いこと投げさせるもんだなぁ」とベンチに戻ってきた野村に言い、「南海のピッチャーをトレードするときには、リードするキャッチャーの力を考えたら、“マイナス5勝”計算にして評価しないと騙される」と褒めあげた。今まで言われた言葉で嬉しかったと、晩年の野村は語っていた[30]

野村は1965年に戦後初の三冠王を獲得したが、野村自身は「あの年(1965年)は、(首位打者争いの常連の)榎本喜八と張本勲の調子が良くなくて俺は3割2分で首位打者を獲れた。本当にラッキーだったんだよ」と語っている[128]。ちなみに野村が首位打者を獲得したのはこの1965年のシーズンだけであり、自己最高打率でもあった。

選手の身なりや礼儀に厳しく、茶髪、長髪、髭は社会人失格という考えを持っている。事実、南海時代に江本が長髪だった時、無理やり切らせたこともある。

監督としては徹頭徹尾トップダウンの姿勢を取った[129]。いつも口にしていたのは「無視・賞賛・非難」。三流は無視、二流は賞賛、一流は非難、という方程式を野村は公言して憚らなかった[130]

楽天監督最終年の2009年終盤、その年シーズン途中に加入したトッド・リンデンは途中加入ながら3割近い打撃成績を残すなど、楽天初のAクラスの立役者となった。一方でバントの構えからバットを引く際に捕手のマスクにわざとぶつけ、両チームの選手たちの小競り合いを誘発したり、肘打ちで守備妨害するなどトラブルも目立った。そしてシーズン終盤の10月10日の北海道日本ハムファイターズ戦で6点ビハインドの9回に代打で出場したが、点差が離れた場面での代打起用にリンデンはプライドを傷つけられ、「クレイジー」「ありがとう」といずれも、自身への起用を皮肉る発言をした。これが野村自身を含めた首脳陣への批判、侮辱の発言となり、リンデンは懲罰として1軍登録を抹消された。この抹消で楽天はCS第1ステージをリンデン不在で戦うこととなったが、福岡ソフトバンクホークス相手にストレートの2連勝で第2ステージ進出を決めた。一方リンデンは謝罪のため、野村と面会したが、Tシャツと短パン、サンダルという軽装に加え、激昂する態度をとったことでその日の謝罪を受け付けなかった。後日リンデンはスーツ姿で謝罪したことで野村も許し、第2ステージから出場した。だが首脳陣批判は罰金も科され、球団が独自で出場停止処分を科すのが当然のことで、最悪の場合解雇の可能性があるがこの時は1軍登録抹消だけの処分だった。これとは別に、リンデンの謝罪を受け入れてまもなく、城島健司に対して「あいつはジャパニーズリンデンや」と批判している。リンデンは翌年も残留したが、翌年は成績不振に加え、暴言退場となった際に、当時のマーティ・ブラウン監督に「なぜ日本人の肩を持つんだ」と言い放った。これがきっかけで球団から40日間の謹慎と600万円の罰金が科せられた[131]。 結局素行そのものは改善されず、リンデンは2010年限りで解雇された。

上記以外にも、監督時代は外国人に苦労させられることが多く、阪神時代はマイケル・ブロワーズを筆頭に数多くの外国人に、楽天時代には上記のリンデンの素行に加えて林英傑がまったく戦力にならなかったことがある。野村は、この事について、著書である『ああ、阪神タイガース』や『あ〜あ、楽天イーグルス』で、フロントの見る目のなさを批判している。

岩崎夏海との対談で「どこの球団のフロントがいいですか」の質問に、「ソフトバンク」と答えている。野村は「全員のことを知っているわけじゃありませんが、ソフトバンクはダントツじゃないですか。実は僕が監督して3000試合を達成した時孫正義オーナーから祝電をいただいたんです。僕は56年間野球をやってきたけど他球団のオーナーから祝電をもらったことなんて初めてだったから感激しました。よその監督に祝電を打つ発想、日本では普通ないでしょう?祝電をいただいてソフトバンクが強いのがわかった気がします。自分のチームのことだけじゃない。球団全体の目配りができる」と語っている[132]

楽天監督時代ソフトバンクの一軍投手コーチだった杉本正についてあのコーチはダメコーチと酷評している[133]

野村再生工場

南海監督時代から他球団から自由契約やトレードで放出され、獲得した選手を活躍させており、世間から野村再生工場という名で有名である[42]

「南海の三悪人」

南海の三悪人とは、現役時代の門田博光と江本孟紀と江夏豊を指す。選手・監督経験豊富な野村だが、南海監督時代に前記の三人にはマネージメントで手を焼いたことで称している。但し、野村はこの三人を野球選手としての能力は素晴らしいと評価しており、それだけに個性が強く自己中心的で我儘だったことで親しみの意味を込めている。そして、野村は後に監督業を行う上で「この三人に鍛えられた。」と述べている。

江本孟紀との関係

現役時代、野村と確執のあった江本孟紀は2012年の著書で「やさしいことを難しく言うのが野村ID野球の最大の特徴。データや戦略だけで勝てるほどプロは甘くない。実際野村さんの成績を見れば分かる。楽天では4年目にようやく2位になったが、ヤクルト、阪神を含めれば7年連続Bクラス。4年連続最下位の監督は過去に例がない。このとき野村さんが何て言ったかといえば、『オレがどんなに言っても選手がその通り動かなかった』って。でもこれは話が矛盾している。そういうチームをデータや戦略で強くするのが野村ID野球なのに、選手の力が足りないというのは本末転倒もいいところ」と野村を批判していたが[134]、2010年代後半には「やっぱり野村監督の野球理論はしっかりしていました。試合3時間前にはミーティングをやって1番バッターから順に1球目ストライクだったら次は?もしボールだったらとやるんです。マウンドに立つと、データを忘れることもあるんですけどこれだけ準備してきた。というピッチングに集中できるんですよ」[135]など、野村野球を称賛するようになっている。

上記のように江本からの批判もあったが、イベントでの共演や対談などで付き合いはあり、現役引退後も師弟としてのつながりは継続している[136][137][138]。また、江本は野村の死後には追悼番組に出演しており[139]、多くのメディアで野村の事を語っている。

なお、野村は後述する事情から、自身に関する資料や写真を「南海ホークスメモリアルギャラリー」(南海電鉄が運営する展示施設)へ提供することを拒否していた。これに対して、江本は野村の生前から、展示に承諾することを何度も打診。野村が永眠した2020年には、遺族から展示の承諾を取り付けた末に、「南海ホークスメモリアルギャラリー」での展示を実現させるプロジェクトを立ち上げている[140]

歌手デビュー

ヤクルト監督時代の1993年4月1日にシングルCD「俺の花だよ月見草」で歌手デビュー。歌詞は野村と交遊のある山口洋子が、野村が自身を月見草に例えた名言をモチーフに作詞した[141]。初版は当時8,000枚売れたという。さらに阪神の監督就任時である1999年7月23日に再発売された。再発売にあたって、レコード会社側はジャケット写真を阪神タイガースの縦縞のユニフォーム姿に差し替えたい意向であったが、ジャケットを差し替えると発売までに期間が掛かるため初版のセーター姿のジャケット写真がそのまま流用された[142]。「俺の花だよ月見草」は1999年11月3日発売のオムニバスCD『おとこの演歌最新ヒット全曲集』にも収録されている。楽天監督時代の2009年1月21日には、実に16年ぶりとなるシングルCD「女房よ…」(作詞は沙知代夫人)をリリース。同年に『うたばん』に夫婦で出演し、披露した。

テレビ出演でのエピソード

ヤクルト監督時の1997年シーズンオフ、『関口宏の東京フレンドパークII』にヤクルト選手が出演した際に、「つば九郎」の中に入って登場したことがある。

野球マンガ・アニメにおける野村克也

野村は選手・監督として野球マンガにも出演している。主なものとして

球界に対するスタンス


現役時代に南海ホークスの本拠地移転を提案

南海在籍時代、川勝傳オーナーに「南海を和歌山か四国に移転させませんか?」と提案したことがあった。理由は大阪府・兵庫県に南海を含めて4球団(大阪 - 南海・近鉄、兵庫 - 阪神・阪急)では観客とファンの奪い合いになることもあり、それであれば親会社である南海電鉄沿線の和歌山県かプロ野球のない四国地方への移転をすれば地域に密着した球団になるとの考えからだった[143]。なお、青木一三は著書の中で、川勝オーナーが2度にわたって愛媛県を本拠としていた来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却を持ちかけたと記しているが、その時期は野村の退任後である[144]

「南海ホークスOB」としてのスタンス

大阪スタヂアム跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団で活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料を用いて紹介しているが、2020年11月の時点では野村の功績を一切取り上げていない[43]。1973年パ・リーグ優勝決定の瞬間を記録した展示写真の中に背番号「19」の「9」が写っている[145]ものの、シーズン単位で監督名を記した球団年表には、同年にドン・ブレイザーがヘッドコーチとして作戦面での采配を担っていたことを載せるにとどめている。

「南海ホークスメモリアルギャラリー」がこのような展示を余儀なくされた背景には、克也が南海を退団するきっかけになった監督職の解任(1977年)などをめぐって、当時克也と交際していた沙知代と南海関係者の折り合いが悪かったことが遠因とされている(当該項に詳述)。現に沙知代は、南海電鉄からギャラリーの開設に際して野村関連の資料・写真の展示許可を求められた際に、自身の独断で展示への協力を一切拒否した[146]。この件については、克也との共著『野村セオリー―絆』(ISBN 978-4759309539)にも、「(克也の南海)20数年ぶりで、やっとあなたたちにカタキが取れます。主人の名前は入れないで結構です。優勝当時の写真があったら、そこから主人の顔を消してください。それが、あなたたちに対する私の長年の思いですから」と明記。「克也も(自身の決断に)文句を言わなかった」とも述べている。克也自身も、関西テレビのドキュメンタリー番組『ザ・ドキュメント 帰らざる黄金の日々 - 南海ホークスへの鎮魂歌』(2004年4月30日放送)で、「球団(旧経営者の南海電鉄)から私に縁切りをする訳にいかないだろうから、 こちらから縁を切らせてもらった」と語っていた[147]

その一方で、南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。野村に協力を要請した結果、8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーへの出席が実現した。野村がホークス関連のイベントに参加したのは、南海からの退団以来36年振り。捕手専任時代後期からの主力打者であった門田博光と共に当時の復刻ユニフォーム姿で登場した野村は、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王に見守られながら、始球式で同ドームの右打席(門田は左打席)に立った[148]。また、同月27日にベースボール・マガジン社から発売された『B.B.MOOK962 ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』には、「ホークスの歴代指揮官」の立場で初めて応じたインタビューの模様が掲載されている[149]

2018年2月10日の巨人宮崎キャンプ60周年記念 ジャイアンツOB対ホークスOB戦で監督として南海のユニホームに袖を通したが「このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」とコメントした[150]。対戦相手の監督はライバルの長嶋であった。

晩年は、ソフトバンクの捕手で、自身の現役時代と同じ境遇(母子家庭育ち)の甲斐拓也に目を掛けていた[151]2010年NPB育成ドラフト会議での最下位(6位)指名を経て育成選手として入団した甲斐は、支配下登録選手として背番号62を付けていた2017年7月に、仙台への遠征中に野村と初めて対面。その際に、野村の著書を数多く読んでいることを告白した。これに対して、野村は「君に(背番号)19番を付けて欲しい」という言葉で甲斐を激励。その後も、2019年の春まで、雑誌や『S☆1』などの番組で何度も対談していた。ホークスでは野村の南海退団翌年(1978年)から(福岡ダイエー→ソフトバンク時代を含めて)背番号19を捕手以外の選手が引き継いでいたが、甲斐は2017年から一軍の正捕手に定着。奇しくも、野村が永眠した2020年シーズンから、背番号を19に変更している[152]。甲斐によれば、「捕手にとって一番大切なものは何か?」と野村に尋ねたところ、「捕手は投手を支えるポジションだから、功を他人に譲ること」という金言を授かったという[151]

ソフトバンクと巨人が対戦した2019年の日本シリーズでは、ヤフオク!ドームで第4戦を観戦。この試合でソフトバンクが4連勝でシリーズ3連覇を達成したことに対して、「OBだから嬉しい」と述べた[153]

ちなみに、江本は克也の存命中に、「南海ホークスメモリアルギャラリー」への展示許可を克也に何度も働き掛けていた[145]。それでも、南海電鉄に対する野村夫妻のスタンスは変わらず、沙知代が2017年12月8日に85歳、克也が2020年2月11日に84歳で永眠。同社では、「野村夫妻の生前の意思を尊重する」として、克也が永眠した際にも「南海ホークスメモリアルギャラリー」に献花台を設けなかった。その後も遺族に対して展示の許可を得る意向がないことを示していた[154]が、遺品を管理する克則に対して江本が改めて許可を求めたところ、克則が2020年10月に展示を承諾。そこで江本は、南海電鉄および、野球評論家として契約しているサンケイスポーツと共同で「おかえり!ノムさん大阪球場に。」というプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトでは、ギャラリーのリニューアルを実施したうえで、克則から提供された克也関連の資料や写真を2021年2月14日から展示することを計画。運営を担う実行委員会には、南海電鉄とサンケイスポーツに加えて、ギャラリーが所在する大阪市が後援団体、克也の出身地である京丹後市が協力団体として名を連ねている。さらに、2,000万円を目標に、リニューアル関連の経費をクラウドファンディングで賄うことも打ち出している[155]

語録


詳細情報


年度別打撃成績

















































O
P
S
1954 南海 9 11 11 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 -- 0 5 0 .000 .000 .000 .000
1956 129 403 357 33 90 26 3 7 143 54 3 3 4 5 36 6 1 66 8 .252 .318 .401 .719
1957 132 542 474 75 143 20 1 30 255 94 7 2 1 1 57 0 9 87 7 .302 .386 .538 .924
1958 120 510 451 56 114 19 2 21 200 79 3 1 3 3 45 5 8 94 17 .253 .329 .443 .773
1959 132 526 472 71 124 18 5 21 215 78 7 5 0 6 45 2 3 98 18 .263 .327 .456 .783
1960 124 480 430 66 125 21 4 29 241 88 8 6 1 4 41 2 4 77 15 .291 .355 .560 .915
1961 136 559 494 70 146 17 2 29 254 89 8 2 0 6 54 10 5 71 17 .296 .367 .514 .881
1962 133 571 489 96 151 28 0 44 311 104 5 5 1 7 70 9 4 101 11 .309 .395 .636 1.031
1963 150 643 550 104 160 20 2 52 340 135 4 5 0 5 84 11 4 112 24 .291 .386 .618 1.004
1964 148 641 558 89 146 23 1 41 294 115 7 4 1 6 71 6 5 50 12 .262 .347 .527 .874
1965 136 559 488 92 156 27 1 42 311 110 3 2 0 5 60 16 6 57 16 .320 .397 .637 1.034
1966 133 556 474 82 148 19 0 34 269 97 8 1 0 4 71 13 7 79 12 .312 .406 .568 .974
1967 133 551 472 72 144 27 0 35 276 100 13 4 0 5 68 14 6 53 23 .305 .396 .585 .980
1968 133 567 458 80 119 18 0 38 251 99 2 1 0 3 103 37 3 65 14 .260 .397 .548 .945
1969 106 434 388 44 95 7 0 22 168 52 1 1 0 3 39 7 4 51 21 .245 .318 .433 .751
1970 130 559 481 82 142 11 0 42 279 114 10 4 0 6 66 7 6 47 12 .295 .383 .580 .963
1971 127 531 467 75 131 13 0 29 231 83 12 2 0 1 56 10 7 43 18 .281 .365 .495 .860
1972 129 538 473 62 138 16 0 35 259 101 4 3 0 8 46 6 11 38 17 .292 .362 .548 .910
1973 129 539 475 65 147 18 0 28 249 96 3 6 0 10 51 7 3 48 31 .309 .373 .524 .897
1974 83 307 265 33 56 7 0 12 99 45 2 0 0 2 38 5 2 30 13 .211 .313 .374 .686
1975 129 546 473 63 126 11 0 28 221 92 3 1 0 8 58 9 7 49 17 .266 .350 .467 .817
1976 119 468 429 35 117 13 0 10 160 57 2 2 0 5 29 1 5 50 21 .273 .323 .373 .696
1977 127 493 447 33 95 9 1 16 154 58 0 4 0 8 33 5 5 41 24 .213 .270 .345 .614
1978 ロッテ 64 145 133 7 30 4 1 3 45 12 0 0 0 1 10 1 1 15 5 .226 .283 .338 .621
1979 西武 74 213 194 14 43 3 0 5 61 22 1 0 0 1 14 0 4 34 4 .222 .286 .314 .601
1980 52 78 69 9 15 2 0 4 29 14 0 0 0 0 7 0 2 17 1 .217 .308 .420 .728
通算:26年 3017 11970 10472 1509 2901 397 23 657 5315 1988 117 64 11 113 1252 189 122 1478 378 .277 .357 .508 .865

年度別盗塁阻止率













1954 8 4 4 0 .000
1955 - - - - .---
1956 127 163 100 63 .387
1957 132 136 77 59 .434
1958 120 131 81 50 .382
1959 131 95 55 41 .432
1960 121 94 58 39 .415
1961 133 101 60 43 .426
1962 130 136 90 49 .360
1963 150 145 74 76 .524
1964 148 109 70 46 .422
1965 133 103 69 38 .369
1966 133 87 48 39 .448
1967 133 102 54 49 .480
1968 133 110 74 39 .355
1969 104 90 65 27 .300
1970 130 134 90 47 .351
1971 126 148 104 46 .311
1972 129 166 115 57 .343
1973 129 160 112 54 .338
1974 75 135 100 37 .274
1975 125 166 114 57 .343
1976 113 131 81 53 .405
1977 127 172 117 57 .331
1978 31 39 33 10 .256
1979 59 133 112 25 .188
1980 41 48 46 5 .104

年度別監督成績

レギュラーシーズン



























1970年 南海 2位 130 69 57 4 .548 10.5 .255 147 3.43 35歳
1971年 4位 130 61 65 4 .484 22.5 .260 156 4.27 36歳
1972年 3位 130 65 61 4 .516 14.0 .253 133 3.48 37歳
1973年 1位 130 68 58 4 .540 1位・3位 .260 113 3.35 38歳
1974年 3位 130 59 55 16 .518 4位・2位 .246 124 3.06 39歳
1975年 5位 130 57 65 8 .467 5位・3位 .246 102 2.98 40歳
1976年 2位 130 71 56 3 .559 2位・2位 .259 97 2.91 41歳
1977年 2位 130 63 55 12 .534 2位・3位 .250 108 3.15 42歳
1990年 ヤクルト 5位 130 58 72 0 .446 30.0 .257 123 4.24 55歳
1991年 3位 132 67 63 2 .515 7.0 .259 140 3.93 56歳
1992年 1位 131 69 61 1 .531 (2.0) .261 173 3.79 57歳
1993年 1位 132 80 50 2 .615 (7.0) .263 140 3.20 58歳
1994年 4位 130 62 68 0 .477 8.0 .250 130 4.05 59歳
1995年 1位 130 82 48 0 .631 (8.0) .261 147 3.60 60歳
1996年 4位 130 61 69 0 .469 16.0 .264 103 4.00 61歳
1997年 1位 137 83 52 2 .615 (11.0) .276 138 3.26 62歳
1998年 4位 135 66 69 0 .489 13.0 .253 97 3.69 63歳
1999年 阪神 6位 135 55 80 0 .407 26.0 .259 97 4.04 64歳
2000年 6位 136 57 78 1 .422 21.0 .244 114 3.90 65歳
2001年 6位 140 57 80 3 .416 20.5 .243 90 3.75 66歳
2006年 楽天 6位 136 47 85 4 .356 33.0 .258 67 4.30 71歳
2007年 4位 144 67 75 2 .472 13.5 .262 111 4.31 72歳
2008年 5位 144 65 76 3 .461 11.5 .272 94 3.89 73歳
2009年 2位 144 77 66 1 .538 5.5 .267 108 4.01 74歳
通算:24年 3204 1565 1563 76 .5003 Aクラス12回、Bクラス12回
※1 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
※2 順位の太字は日本一
※3 1970年から1996年までは130試合制
※4 1997年から2000年までは135試合制
※5 2001年から2004年までは140試合制
※6 2005年からは136試合制
※7 2007年からは144試合制
※8 通算成績は1977年の解任後の2試合を含めない
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
1973年 南海 パ・リーグプレーオフ(※2) 阪急ブレーブスパ・リーグ後期優勝) 3勝2敗
日本シリーズ 読売ジャイアンツ 1勝4敗
1992年 ヤクルト 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗
1993年 日本シリーズ 西武ライオンズ 4勝3敗
1995年 日本シリーズ オリックス・ブルーウェーブ 4勝1敗
1997年 日本シリーズ 西武ライオンズ 4勝1敗
2009年 楽天 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ(※3)
福岡ソフトバンクホークス
(パ・リーグ3位)
2勝0敗
パ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ(※4)
北海道日本ハムファイターズ
(パ・リーグ優勝)
1勝4敗(※5)
※1 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※2 当時のパ・リーグプレーオフは5試合制で先に3勝したチームがリーグ優勝
※3 クライマックスシリーズ1stステージは3試合制で先に2勝したチームの勝利
※4 クライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※5 4敗の中に日本ハムに与えられたアドバンテージを含む

タイトル

表彰

記録

初記録

節目の記録

その他の記録

背番号

一の位と十の位を足して10になる数字を縁起が良いと言って好んでいる。

関連情報


栄典・野球以外での表彰

栄典
ファッション関連
その他

著書

単著

単行本
文庫本
新書

共著

関連書籍

CD

出演映画

出演番組

テレビ

など

ラジオ

広告

参考文献


脚注


[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 野村は後年、自分は巨人の大ファンで巨人に入りたかったが、巨人には甲子園で活躍した一学年上の藤尾茂捕手が入団したばかりだったためレギュラーになれないと思って受験を断念し、捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えたから南海のテストを受けたのだ。と主張するようになった[15]。また産経新聞の取材に対しては「たまたま、『南海ホークス新人募集』という広告が新聞の片隅に出ていた。行ってみよう、と。まさか受かるとは思わなかった」とも主張した[8]
  2. ^ ともに最終戦、最終打席で近鉄山本重政から打ったものだった。
  3. ^ 約1年前に王貞治が甲子園球場で600号を放った際の観客は3万3,000人いた。
  4. ^ 他には王貞治、佐々木誠がいる。
  5. ^ 後にテレビ番組内で日本プロ野球最高年俸(放送当時)の話がでた際、プレイングマネージャー時代の年俸は5億円だったことを明かしており、35年ほど前には現在の最高年俸者と同額の年俸であったとした。[信頼性要検証]
  6. ^ 同年はトリプルスチールを2回成功させている。なお、自身が現役時代、三塁走者の時に敢行したホームスチールは7回という記録がある(2009年11月4日、RKBラジオ中西一清スタミナラジオ』にて、作家でスポーツジャーナリストの玉木正之が電話で証言[信頼性要検証])。
  7. ^ 野村沙知代に対する公職選挙法違反(虚偽事実公表)の疑いでの告発を受けた東京地方検察局は平成11年、実子・野村克則の誕生日から逆算して、昭和47年(1972年)当時には野村克也と事実婚の関係にあったとの推定を報告している。
  8. ^ ただし、この年の後期には阪急戦に1勝もできず、惨敗した試合ではベンチで笑みを浮かべるなど真剣勝負を疑われかねない態度も見せたため一部で物議を醸し、「死んだふり」などと揶揄された。勝敗は二の次で相手方の作戦やサインプレーの研究に終始していたという。
  9. ^ ただし、南海監督解任後も、野村とは親交があった。
  10. ^ 電話の内容が分かった理由は選手たちは、電話交換室にしばしば出入りしていた。冷房の効いた電話交換室を休憩所代わりにし電話の内容は聞こえてくる。携帯電話、メールがない時代。プライベートな会話も丸わかりだったという。
  11. ^ このとき同僚になった松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。
  12. ^ a b 1981年から1982年までTBSテレビ・TBSラジオのプロ野球解説者を務めたことについては、次の資料を参照[53]
  13. ^ この年、同一カード3連戦で3連敗は1度もなし。
  14. ^ イチロー以外にも中嶋聡捕手も徹底的にマークし打ち崩して捕手交代に追いやった。
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関連項目


外部リンク





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データム: 13.12.2020 12:51:49 CET

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